ボランティア

 昨日は月1回のボランティアの日。と言っても仕事関係のボランティアだから、あまりボランティアという感じがしないのだが。

 ワタシの生業は、”言葉のリハビリ”をするというもの。職場によって対象とする人は変わるが、ワタシの場合は病気や事故で脳を損傷し、言葉が話せなくなったり、呂律の回らない話し方になってしまったり、聞いても理解できなくなったりした成人のリハビリを担当する。

 昨日は、若くして(10〜30代)そのような言語障害になってしまった若い人たちの定例会に参加した。この活動には3年半程前から関わっていたが、2年前、ある青年から「僕の住む地域にも、こういう会を作りたいから協力してほしい」と頼まれ、その後は、彼の住む地域での活動を主に、関わり始めた。

 それから2年。昨日で定例会は10回を迎え、いつもと同じ様に笑いと笑顔の絶えない、和やかな時間が流れ、今回も成功裡に終えることができた。会の終了後に行った2次会でのお酒の味は、これまでになく格別だった。
 振り返るとあっと言う間の2年だったが、いろいろな試行錯誤や衝突、話し合いを重ねてきた2年間だったように思う。

 まず最初に困ったのが、定例会を行う会場探し。車椅子にも対応している会場は少ないし、エレベーターのついた駅も、まだまだ少ない。そして2次会の会場も然り。バリアフリーなんて、言葉だけが独り歩きしているんじゃないか?と、つくづく痛感させられた。それでも、メンバーや保護者も交えて、会場探しや2次会の会場探しをし、時には皆で出向いて、自らの目と足で確かめて、少しずつ開拓していった。

 正直なところ、月に2回しかない土曜日の休みの1日を、この活動に持っていかれてしまうことに、「あーあ・・・」と思うこともある。でも、最初は名前を言うのがやっとのメンバーが、何年もかかって少しずつ話せるようになり、表情や行動にも変化が見られるようになっていく様を見ると、本当にこの活動をやっていて良かったなぁと心の底から思う。
  
 苦しい歴史を経て、つむぎ出される彼らの言葉は、ずしりと重く心の琴線に触れ、でも、きらりと光る何かを持ちあわせている。多くの情報や言葉が飛び交っている今、はたしてどれだけの言葉が重みを持っているだろう?心の琴線を震わす言葉って、どれくらいあるだろう?